February 28, 2010
ほめられない理由
わたしはほめらた経験が沢山ある。
記憶をさかのぼると、美大の予備校時代に受験目前の模擬テストの講評で講師
の先生から『君はどこかに受かりそうだね。』と言ってもらえた。
『君はどこにでも受かりそうだね。』と、先生が言わなかったところがミソで
実際三つの大学を受けて受かったのは一つだけでした。しかし一番行きたかっ
た大学だったので、すべてオッケーでした。
もちろんわたしだけがほめられたのかどうかについてはまったく記憶にないし
『どこか』と言われただけでほめられたと思うのが、わたしの「才能」なのか
もしれません。ポジシンですね。
大学時代にも先生にほめられた記憶もあるし、ふたついた会社のどちらでも
会社の偉い方からほめられたし、その後一年嘱託として属した会社のセンター
長さんにもほめられた。
おもしろいのは褒められたからといって大事な役職に推挙されるわけでもなく
会社員としてどうだったのかが評価されたのかはわからない。
優秀なひとの事を「おとなになって」からそうひとは褒めたりしないですね。
わたしも。 一目置くというのはわかりますが。
まあいいんです。本人の中ではすてきな思い出となって励みとなっていますか
ら。
さりとて「人を褒める事は大事です」というある意味ありがちな人生訓をする
つもりはさらさらありません。
なにせそのほめられた経験をさせてくれた人たちは、どちらかというと厳しい
ひとが多くて怒られたことのある人が大勢いるタイプの人たちだからわたしも
感慨が深いのです。実際わたしも叱られたと思います。あまり覚えてませんが
なにせ「ポジシン」なので。
だれかれなくいいところを褒める人の「クロームメッキ」のようなことばも
十分うれしいですが、「いぶし銀」のような褒め言葉はしっかりとこころの
奥に届いて「とどまる」。
これも結論ではありません。
それだけ「しぶいほめられ」を経験しているとどういうこころもちになるかと
いうと「ほめられなかった事」に対して観察や洞察する気持ちが生まれる。
なぜあの時代は「ほめられなかったのか」褒めなかった人の心情と事情に思い
が及ぶ訳です。
なぜあのデザインはよろしくないと言われたのか。わたしの振る舞いはどこが
相手の感情にとどかなかったのか。すれ違いが生じたのか。
わたしは自分を単純に「せめられない」。いたらなさを悔いられない。
自分がほめられるか否かでは物事はできていない。 その時なにが相手に起き
ていたのか。難しいなあ。
結論は「結論なし」です。
ただ「ほめられる」の周辺について考えた事を書きたかったのです。
01:19 PM


