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April 12, 2009


らしさ

何年か前、出張先のホテルで夜中に目が覚めてつけたテレビに釘付けになりま
した。

画面には若手アーチストの活躍の紹介とともに、ニューヨーク近代美術館の
キュレーターの話が出て来ました。その人物の言葉に釘付けになったのです。

『ニューヨーク近代美術館のコレクションに対するコンセプトはニューヨーク
近代美術館「らしからぬ」ものをセレクトし続ける事にある。』

ぼーっとしたねぼけた頭にゴーンとその言葉が飛んできました。 

ふだんなにげなく使っているそれも案外頻繁に使っている「らしさ」という
言葉は、考えてみるとはなはだ曖昧でそれ自体つかみどころがありません。
逆につかみどころが無いおかげで使いやすい便利な言葉でもあるからでしょ
う。

「らしいねえ。」「らしくないねえ。」どちらもいい意味なのかその反対なの
か時と場合と相手によって千変万化する言葉です。

つまり「らしさ」の本質というか「その場での意味」を共有するのは難しい
んじゃないかと思うのです。

意味の多様性ということに於いて現在の表現の王者「可愛い」ということばの
大人型かと思うぐらいです。

さらにややこしいのは「らしさ」という言葉は、土星の輪のように「さらに外
にさらに外に」何層も広がりがある。

「xxさんらしい」「xx会社らしい」「xx国らしい」等々。一層目では「いい
意味」だったのが二層目では「そうじゃない」かもしれません。

そういう難しく複雑に絡み合っていてそれでいながら「安易」でもある
「らしさ」を見つめるにはMomaのキュレーターのように「らしくない」を
科学する必要があるかもしれません。

なぜなら「らしい」というよりは「らしくない」という言葉を使う方が「言う
側に責任」があるように思うからです。

そういう意味ではわたしも「わたしらしさ」の再発見のために10年間(!)
も「らしくない」を探し求めましたからその意義について多少は話せるかと感
じております。

なぜ10年も彷徨った(研究した)かといえば、わたしの「らしさ」は自分の
「原型」が学生時代に知ったドイツやイタリアのデザインと現代美術がベース
になっていて、本人としてはちっとも「生来」というか「地」だという気が
さらさらしなかったからに他なりません。

もうひとつには当時あたらしいデザインの流れが来てわたしがそれまで追って
いたものがなんだか的外れに思えて来たからです。

そうかっこよく「らしからぬを科学した」なんていっていますが、その実は
『このままじゃ自分が置いて行かれる。』そういうあせりの気持に他なりませ
ん。

しかしながら「らしからぬ」はやっぱり身に付かなかった。そしてますます
わたしは外へ外へと飛んで行った訳です。

わたしは『こりゃもう無理だ。』そう思ったのです。そして当時買い集めてい
た「デザイン年鑑」や海外の雑誌を見る事を辞めました。かなりきっぱりと。

そういう中で生まれたのがデバイスタイルの製品群でした。わたしはそれを
デザインするのにほとんどなにも見なかったし調査もしませんでした。

それはある意味「デザインのタイムマシーン」でした。

自分が若い頃追い求めていた「過去のいいデザイン」をもう一度登場させる
ことを考えました。ブラウン・バウハウス・B&O・ベリーニ・ソットサス
等々。

20年30年前のデザインを「今の生活スタイル」を考える事そこにスタンスを
置いてデザインしたのです。

『なんだ 自分らしさって結局無いんじゃない。』ここまで読んだ人は、そう
思うでしょう。その通りです。自分が好きだと思えるものに憧れて自分の出来
る範囲でそれを消化してデザインにすることが「わたしらしさ」の原点という
か「見えがかり」になっているのです。つまり「選択」こそが「らしさ」なの
です。

今も海外に観に行ったりもしますが、それは学びに行っている訳でも「新しい
らしさ」を発見しに行っている訳ではありません。言ってみれば「学べない事
を確認しにいっている」のです。「学べないを学ぶ」感じでしょうか。

ニューヨーク近代美術館のキュレーターの話からはじまった話ですが、結局
わたしはその人物の話が「おもしろい」と感じて頭がくるくるまわりましたが
その挙げ句『そうかもしれないけれど、わたしはそういう「らしからぬ」を
求めている動きには合わす事は無理だなあ。』という結論が出た訳です。


12:05 PM