Archive of February 2012
February 29, 2012
ブレーキ
『ブレーキ性能があがるとどういう事が起きると思いますか?』青年が聞いた。
『うーん、なんだろう』とわたし。
『ブレーキの性能が上がるとスピードが上がるんです。つまりいつでも止まること
ができればスピードを安心してあげられるんです。』と彼。上手い事いうなあ。
まさにそうだなあ。ブレーキが利かなければおいそれとはスピードをあげられない。
このところ「デザインの道徳の時間」みたいな話題が多かったのでルールに準拠し
ておとなしくデザインをしていると思われそうですが、実はそうでもない。
なぜ「ルールを守れ」と言いながら「行っても良いんじゃない」という行動を取る
かと言えばそこにはちゃんと「ブレーキ」が存在するからです。
わたしは過去から今に至るまで業務用の製品のデザインに関わる事が多い。
そのジャンルを知らない人からは『がんじがらめでデザインしにくいでしょう?』
そう思われていると想像するのですが、きっとその世界を見れば「びっくりする」。
プロ用の放送機器や音響機器にはとんでもないデザインがたくさんあります。見て
いて楽しくてしょうがない。理由は簡単で使う人が「特定」されていますから、そ
の人達が「使いやすい」「たのしい」「いい」と言えばそれで通用する世界なので
す。
つまり業務用の世界は公道ではなくて私道さらにいえば「サーキット」です。
とれだけ飛ばしても文句を言われない。それどころか『性能がいいなあ』とほれぼ
れしてもらえる。
さてさてスピードの最大の伴侶であり友人であり「恩人」であるブレーキが身体に
そなわっているそういった業務用のジャンルにくらべてスピードとブレーキの関係
がまだまだよく判らないジャンルがわたしにはあります。
一般家庭で使われる生活家電です。それは「誰が使うか?」の解釈が広いというか
融通無碍な世界。
すべての注文に応えれば「曖昧」になるのは自明の理です。みんな少しずつ意見が
違っていて、走る度にその角から子供が飛び出し、おばあちゃんがひょっこり現れ
アベックが「ふらふら」道を歩いている。そんな公道でスピードを出せる訳があり
ません。生活家電はそういう道でうまれて育ってきたのです。しかしながらそんな
遅いクルマで「若者」が満足するわけもありません。
十数年前に「ヨーロッパの家電はこんなに面白い」「海外向けのデザインは面白い
のになぜ国内向けは・・・」というデザインの特集ムックが発売されました。
なぜヨーロッパでは生活家電もスピードをだせるか?そう思ったわけです。
そういう空気を感じて生まれたのが「デザインXX」です。
つまりユーザーを「若者もしくは気持ちが若者」に限定したわけです。「横道から
飛び出しませんだから飛ばして」そういう事です。
しかしモナコグランプリみたいに「だれも入らないからサーキットだ」と宣言した
わけではありません。バーチャルです。そういう「気配」に対応しただけなので、
あいかわらず飛び出してくる人はいるしさらにいえばスピード違反だと言う人がい
てもおかしくないのです。
なぜヨーロッパで「飛ばせる」かといえば暗黙のうちに「これはこれしかできない」
という限定に対して「コンセンサス」が得られているのでそれが可能なのです。そ
こには年齢的な限定はないというか「それにあわせる」事が大人であるという了解
が存在する。
なんでもかんでも出来る事を要求しない事がスピードにつながるのです。
そういう「公道」があればだれでもスピードは出せるのです。別にスペシャルな才
能ではありません。条件がデザインのスピードをかえる。
べつに「デザインXX」を分析するのが目的で書き始めたわけではないのです、ブレ
ーキを大事にしてばーんと飛ばして目的の場所にピッと止まる事をすると楽しいよ
かっこいいよと言いたいわけです。
12:49 PM
February 28, 2012
条件
わたしは他人の心配をする。
自分の事で手一杯のはずだけれどなぜだかその人の仕方が気になる。
なぜ気になるかと言えばたぶん自分の理屈やルールと違う事をしてい
ながら結果を出すのを見ていると「自分のアイデンティティー」まで
揺るぐような気になるからだろうと思う。
「そうしちゃうと今は良いけれどそのうち壁に突き当たる」そう感じ
てしまう。
またまた遠い昔の事を引き合いに出しますが美術予備校の頃に、「色
彩構成」という課題がありました。
基本的に「禁じ手」が三つほどありました。
色の塗っていない面を残してはいけない。真っ黒と真っ白は使っては
いけない。何かを貼ってはいけない。そんな感じでしょうか。
面白いというか興味深いのは、色彩構成が得意な人ほど「禁じ手」に
近づいていくわけです。
ようするにその禁じ手に近いほど良いものが作れる事を得意な人は判
っているわけです。そしてどんどんグレーゾーンの工夫をする。
真っ黒に少し緑を入れて「黒じゃない」と言ったり真っ白に少し黄色
を入れて「白じゃない」という方便を生み出す。
色彩構成に限らずコントラストを強くすればそれだけインパクトが強
くなりますから人の気を惹きやすい。さらにプロの仕事には「真っ白」
や「真っ黒」はいくらでも存在しますからそういうテクニックを使い
たくなるのはよく判る。
しかしみんなが同じ「ルール(決め事)」の中でどれだけ可能性を高
めるかという事がトレーニングであって中でその時点でいい結果を出
す事に本来意味が無い。
これはグラフィックの話ですが、プロダクトデザインにも同じような
事があります。
あるコンペで入賞したものを見て相当にもやもやしたことがあります。
わたしもそのコンペに参加しようと思っていたのでその課題の「条件」
を知っていました。
「製品化」を目標にして機械の構造も提示されていたリアルな課題で
ありわたしはその条件では難しいと思い結果出すには至りませんでし
た。
その入選作はまったくその「条件」を無視したものでした。
当然という感じでそれは製品化されなかった。わたしはその人がその
後どういう活動をされているのかもしらないし名前も覚えてはいません。
ルールを無視せずルールを越えるものを作り出すというのが、信条です。
逆に言えば「条件そのものを予め変更してもらう事」に注力する前段の
工夫こそが必要であり、その事によって「全員にその改変の成果を配分
する」のが筋でしょう。
どう見てもルールに縛られているように見えないのに、ちゃんと「規格」
をクリアーしているそういう事を知った時に、わたしは感心もし感動も
します。
しかしひとり規格を外して「いいもの」は『それが許されるならわたし
にも出来る』そう思ってます。
その時々のルールをちょっこと破って仕事をしているとだんだん先が細
くなってしまうよ。そう思うのです。
9:26 AM
February 27, 2012
講演の余韻
わたしは講演をした後「抜け殻」みたいにぼう然とします。
ぽわーっとしてそしてそこはかとなく「充実感」があってしあわせな気持
ちにつつまれます。
先日の大阪市立デザイン教育研究所の講演後わたしはまったくもってしあ
わせな人でした。
さっき郵便ポストの蓋が持ち上がっているので見ましたら、大阪市立デザ
イン教育研究所の細野先生から封筒が届いていました。
中にはA4のレポートが入っていました。
それは先日デザイン教育研究所でさせていただいたわたしの「特別講演」
に対する学生さんたちの書いてくれた感想文でした。
すごい41名分。単位とは関係無くなっている卒業される方まで書いてくれ
ています。
それにしても感心しきりです。こんなに丹念に思いのこもったものをみん
なが書いてくれるなんて。
すべて読ませていただきました。みなさんとても読みやすい文章でした。
それはすばらしい事です。 読みやすさはデザインの一歩です。
さてわたしの話の中でも心をとらえたのは「10集めて9捨てる」「ひとつ
の事を掘り下げる一芸の大切さ」「大きいものはより大きく小さいものは
より小さく」という言葉だったようです。
ちょっと「補足」しておいた方がいいかと思ったのが「一芸」のお話。
専門学校は課題が多いです。そこには短い時間で多くの技術を習得しても
らおうという学校の思いやりがベースにあります。
その事と「ひとつの事を掘り下げる一芸」は矛盾しないという事を伝えて
おきたのです。
なぜ「一芸」のお話をしたかというと講演の前に展示会場を見ておきまし
た。一応すべての作品に目を通させていただいたはずです。
その中で「目についた」のが、自分の「好き」という事が明確な学生さん
がいらしたわけです。そしてまた観ていると同じテーマでまた課題をして
いるのを目にして、わたしは良いなあと思った訳です。
それは「やりたい事があれば課題が楽しくなる」からです。
やらされている課題がしたい課題に変貌する訳です。そうなればめっけ物
でどんどん技術が向上します。
3Dをしても「どう見せたいか」「どうしたいか」が明確になりそれが出来
るようになりたいが為に3Dの技術が向上します。モデルを作る時も同様に
「探求」しやすい。Webデザインを学んでもその「好きなモノ」を買う人
や使ってくれるだろう人が目に浮かびます。(それが自分自身でもかまわ
ないのです)
ポスターだって見せたいポイントが明確です。見せたいものをより大きく
するでしょう。
つまり「一つの事によって多面的に研究分析」できるのです。向上心が芽
生えやすく「飽きる」なんて心配が無用になります。
学校が与えてくれるのは「モチーフ(動機付け)」でありそれを高めるの
はみなさん各人です。そういう前向きな学生の気持ちによって学校が動く
事があるのです。
受動的ではなく能動的に主体的に。なにかひとつの事をきっかけにそうい
う気持ちが芽生えるというわたしの気持ちがあって「ひとつの事を掘り下
げる」というお話しをさせていただきました。
7:31 PM
February 27, 2012
チャンスをプレゼントする
月曜日の朝からいい知らせ。
南政宏さんとわたしがデザインした艸方窯の「光る手洗器」が第5回京都文化ベン
チャーコンペティションでビジネスモデル部門の最優秀である「京都府知事賞」
に昨日の最終審査で決まったという知らせです。
南さんは平成のデザインコンペ王ですが、さすがというほかありません。
艸方窯の奥田社長の喜ぶ顔が浮かびます。
先般書いたようにわたしにとってコンペは「自分の為」では無くなっています。
日頃地道に努力しているメーカーやそこで働くひとたちに輝きをプレゼントす
るのが目的であり目標です。
幸いな事にセラミックジャパンにも賞をプレゼントできたし、タケダデザイン
プロジェクトにもプレゼント出来たし、信号電材にも少しはプレゼントできた。
清々しい朝です。
9:18 AM
February 26, 2012
リアルデザインのこと
デザイン誌「Real Design」が来月発売される号をもって休刊する。
「生き残る雑誌」だとリアルデザインの事を思っていたので驚いた。
思えば3月号の「デザインのチカラ」という特集が編集者の思いのこもった
渾身の企画だった事をあらためて感じるのです。
わたしは3月号が発売される直前に、その特集にいくつもの製品が紹介され
ているのでサンプルとして早めに届いていたその雑誌を出張先のメーカーで
社長さんから見せてもらいました。
めくりながら社長さんは『こんなにいいデザインが沢山あって、それを紹介
してくれるこういう本があるならもう一度頑張ろう』と言われました。
わたしも同感でした。特定のデザイナーや製品に特化する事無くこうやって
フラットに綺麗な写真とレイアウトで見せてくれるなら意義があるなあと感
じていました。
リアルデザイン誌はコンセプチャルでもなくエンタテーメントが高い訳でな
く「デザインの常識」というスタンスだったように思う。
めずらしく「取っておきたくなる雑誌」でした。
わたしはリビングの棚の上にバックナンバーをおいていて、ちょっとした時
に取り出してはながめる回数も多かった。
わたしは編集者の方に『コンビニで買えるデザイン雑誌は貴重です。多少は
「受け狙いの誌面」でもいいから継続を目指して下さい』と言った事がある。
文化というのは、どこでもだれでも同じ情報が得られるというベースがあっ
て成熟すると思っているので、そういうベースを担うのはプロダクトデザイ
ンにあってリアルデザイン誌は大事だと思っていました。
うーん残念。また若いデザイナーが世間にデビューするチャンスが減ったと
いう意味ではもっと残念です。
5:33 PM
February 25, 2012
渡辺さんの事
上のIwataniカセットコンロ「アモルフォプレミア」をデザインされたのが
デザイン事務所「プレーン」の代表渡辺弘明さんです。
渡辺さんを紹介してくれたのは、大学の後輩でもあるziba tokyoの代表平田
智彦さんでした。今から10年ちょっと前の事でしょうか。
当時わたしは「もんもん期」にありましたが、渡辺さんから元気をもらいま
した。渡辺さん大変な「ほめじょうず」ですから、多少年長であるわたしの
良いところを色々「教えてもらった」わけです。一方わたしは渡辺さんにな
んのプレゼントもできなかったというなんとも一方的な出会いでした。
さらに渡辺さんからは「もらう一方」な立場でありました。
「行こうか行くべきか」そういうわたしの気持ちを押してくれた一人がまち
がいなく渡辺さんの存在でした。
プロダクトデザイナーには「貨物船タイプ」と「客船タイプ」があると思っ
ているのですが、渡辺さんもわたしもある時期までまったくもって「貨物船
タイプ」でした。
デザインという荷物を大量に積んでクライアントという港に期日にぴったり
あわせて届けるといういう意味において実績は沢山ある。
しかし貨物船を知るのは貨物船のパイロットと一部のしぶい愛好者達だけで
ある事も確かです。
他方客船タイプも運ぶ事にかわりはありませんが人を乗せることによってそ
の存在をどんどん広げてくれる効果があります。乗客が「モノを紹介する人」
ならばそれ以上の効果があがります。
本質的に貨物船も客船も「基本構造」は同じですから「どちらを選ぶか」は
人それぞれの「性格」です。
わたしはデバイスタイルの製品群をあいかわらず貨物船として運んでいまし
たが、どうもそれはただの荷物ではなかったようでしだいに貨物船をみせて
ほしいという人が集まりだしたわけです。
なんども説明するうちに『ひょっとすると客船の方が向いているかもしれな
い』そう思い出して、「服装」まで気を配るようになったわけです。
つまりこれまで貨物船の外観というのに関心はなかったけれどそれで済まな
くなってきて「貨物船の重要性」を世間に知らしめた方がいいかもと思いだ
した訳です。
そういうわたしの「変化」がひょっとしたら渡辺さんへのプレゼントになっ
たのかもしれません。
変化には変化の証明が必要ですが、このカセットコンロはそういう証明をし
てあまりある製品だと思います。
有名=客船という図式にはわたしは違和感を覚えます。
貨物船であっても人に知られておかしくはない。つまるところプロダクトデ
ザインという職業そのものに対する認知が上がれば客船のパイロットも貨物
船のパイロットも等価である事を判ってもらえると思うのです。
職業として成熟はしているジャンルですが認知という意味ではまだまだ確立
はしていない。
Iwataniのサイトでも対談をされていて、それは良い事だと思います。
渡辺さんもわたしも貨物船の時代が長いですし「それを選んだ」わけですか
らそう簡単に客船には変貌しませんが、「人も載せる貨物船」というのは変
ですが、貨物船でも客船でもない第三の有り様を一緒に模索して行きたいと
思っております。
11:16 AM
February 24, 2012
若い文章
わたしの実年齢を知らない人がわたしのブログを読んで幾つぐらいの人に
感じるかが知りたいと思う。
自身の設定年齢は「30歳ぐらい」なのですが、別段30歳の人が書く文章が
どんなものかはわからずに勝手にそう思っています。
そんな「文章年齢」を考えるようになったきっかけの人がいる。
元NECデザインの社長さんだった榊原晏(さかきばらやすし)さんがその
人なのですが、今から20年ぐらい前にデザインアンケートがあっていろんな
会社のデザイナーやフリーのデザイナーが何十人もそのアンケートに答えて
いたのを読んだのですが、わたしは榊原さんの文章が「光ってみえた」の
です。
なんて聡明な若者がいるんだろう。そう思ったんですね。
「若者」と表現するぐらいですから当時35ぐらいだったわたしより「幾分若
い人」そう勝手に想像していました。わたしはその人物に是非会いたいと感
じました。
だれに聞いたのか忘れましたが、榊原さんの事を聞いたら『あーNECの偉い
方ですよね。』という返事が返ってきてびっくり仰天した訳です。
文章からは「変えていこう」そういう気概を感じたわけですが、その方が
わたしよりも15歳ぐらい上の方で、日本を代表する会社のメネージャーとい
う立場で書かれていたという事で二重に驚きました。
その文章を見てから5年以上経った頃に榊原さんに会う機会を得ましたし、
いろんなところで何度もお会いしお話を交わすようになれたことはわたしの
「宝物」の一つです。いつも目がキラキラしているんですね。
榊原さんの文を知ったおかげで「若い文章」というのは、ひとつの価値だと
思うようになったわけです。
7:46 PM
February 24, 2012
礼服
デザインは自由とかカジュアルとか楽しむという言葉と同義語のように
思われているけれど、「礼服」も必要なんではないかと思う。
様々な式典や儀式ではやはり「社会性」を考えざるをえない。
逆に言えば「礼服」というものは定型としか考えられていない。そこに
「改善」や「進歩」というものの入り込む余地がないと思われている。
しかしそういう「決まり事」の中でもデザインは可能ではないか。
プロダクトデザインの世界にも「礼服」というカテゴリーがあり、そう
いうところでどう新しい世界を生み出せるか。そこがわたしの役割のよ
うに思うのです。
9:32 AM
February 24, 2012
価値
「もらった本は読まない」「もらったものは使わない」
これがわたしの感想です。もちろん「例外」はあります。
もらって重宝したものもあるし、もらって感動した本もある。
しかし基本的には自分で「もとめた」事の無いものはあまり身に付かない。
小額でもいいから買った方が良い。出した方が良い。
自分からその事に「代償」をはらった記憶がモチベーションになる。
8:57 AM
February 23, 2012
無題
8:42 PM
February 23, 2012
教える側になった時に感じる「ことば」
江口海里さんのサイトに先日の大阪市立デザイン教育研究所での講演に関して
書いていただいています。
わたしは仕事先の人に『若い人が真剣にアキタさんの話を聞かれているんです
ね』と度々言っていただくのですが、たぶんそれは江口さんや南さんのブログ
を見られての感想なんだろうなあと思っています。
彼らはどちらも30代に入ったところですが、それは偶然ではないとおもってい
ます。
社会に出て10ほどが経ち、家庭ももってある意味「ベテラン」という事も言わ
れるようになり教える側になった時に感じる「ことば」がるからだろうと思っ
ていますし、わたしから言うのも変ですが、彼らが「だれかに話すとき」の
ひとつの基準になっているのだと思います。
聞く一方ではわからない機微があるんだと思っています。
それにしても江口さんの要約力と前向きな解釈力はすばらしい。
6:20 PM
February 22, 2012
解けた
みんなどんなデザインが良いのか確信が持てないでいる。
確信の無さゆえに誰かが言ってくれる「これが良い」という「断定的判断」に
弱い。誰かが言った言葉がそれぞれの人に入り込んでいつのまにか「自分の判
断」にすり替わる。
お店は雑誌の情報に頼り、雑誌は海外の雑誌の情報に頼る。そういう図式は数
十年も前に終わったと思っていたが、どうもそうではなかった。
結局「依存心」のドミノ倒しが起きる。自分の意思で「右に倒れるか左に倒れ
るか」を選んではいない。さらにいえば右からも左からも力がかからなければ
自らの意思のチカラで方向を決めたりはしない。立ったまま。それが今だ。
わたしはどうかといえば「抗った」。わたしにかかる右も左もなく「突っ立っ
たまま」を選んだ。言い方を変えればぱたぱた寄りかかるものをわたしのとこ
ろで終わらせてそこから先には伝達しないようにつとめた。
もちろんいつまでも「右に倒れる」というのが理にかなっていればわたしも喜
んでそうしただろうと思います。
わたしはデザインは多様だというのが信条というか「確信」です。
逆に言えば「自信が無いというのが自然な有り様」だと思っています。さらに
重ねれば「自信が持てないという自覚こそが自信」だと思っています。
今わたしはカトラリーのデザインをしていますが、カトラリーにおいては使い
勝手の「決定版」はありえ無いという結論に至っています。
なぜならそれぞれの料理の硬さも形状もことなるわけで、それらをひとつのカ
タチにまとめる事は出来ないのです。
汎用性の高いものは生まれてもそれはすべてのベストを意味しません。言い換
えればベターかグッドの領域が広いものは「作れる可能性がある」という事で
す。しかしそういう状態を人は「曖昧」だとか「明確でない」と判断し特長の
あるものを「デザイン」と呼びそれが新しければ「新しい個性」といい珍重し
ますが、ずっと新しくはいられないのです。
わたしは勉強会や講演会を通してずっと話していた事は『どちらに倒れるべき
かを他人の判断や世間の空気にゆだねるな』という事であり、自分がどちらか
に倒れるべきかをデザインの歴史で判断すべきだ』と言い『自分が倒れるとだ
れかを巻き込んでしまうという自覚が必要であり責任が発生する』という事で
はなかったかと今思います。
「ベターをなす事」は矛盾でも弱い意志でも造形力の無さでもありません。
多様を生み出す事は大事な文化への貢献だとわたしは思います。
1:33 PM
February 21, 2012
悠々と
「人生は悠々と急げ」と書いたのは開高健だったと思うのですが
さらにそのベースになっただろう言葉に出会った。
「ゆっくりと急げ」ローマ皇帝アウグストゥス
そうしてます。
11:24 PM
February 20, 2012
気をつけます
マザーテレサの言葉を知った。
思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になる。
言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になる。
行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になる。
習慣に気をつけなさい、それはいつか性格になる。
性格に気をつけなさい、それはいつか運命になる。
気をつけます。
9:20 AM
February 20, 2012
時期
毎日がスリリングですね。
なにが起きるか判らない。
この頃なんだか「理解」してもらっているという充実感がある。
仕事の多くは「わたしでなくてもできる仕事」からはじまる。
わたしはそれでもまったく関係なくその仕事にあたる。
「わたしでなくてもよかった事」を「わたしがやった事がよかった」
に変えて最後には「わたしだからできた仕事」に変えていく。
そこに醍醐味があり生き甲斐がある。
ドラマや劇でも大事な「役」がオーディションで選ばれる。
役のイメージがあってもそれを誰が適任かはわからない。
その役を一生懸命演じることによって次第に役柄がその演じ手に
「同化」をしはじめる。
そういう事を積み重ねてはじめて世間に存在を知ってもらえる。
今その変換の時期に来ているという充実感がこの頃ある。
8:58 AM
February 19, 2012
今年のこと
昨年の末ぐらいから例年になく寒い日が続いています。
本来わたしは寒いのが苦手なのですが、こうやって間断なく寒いと意外と抵
抗力のある自分に気がついた。
たぶん自分の頭にしっかり「寒い」という認知が巡っているからかと思って
います。
寒いと言えばデザインを巡る世界もかなり寒い。デザインをつたえる情報も
どんどん減って90年代の後半ぐらいのレベルに逆戻りしてしまった。
5年ほど前ならたぶん「あたらしい潮流」などという記事になっただろう新
製品たちも巷をにぎわす事も無く消えていった。
年を取る事はいろんな側面があるが「今」をどう捉えるかに対しては少しは
「薬効」がある。
きっとまた温かくなって「熱く」もなると思っている。
冬には冬の良さもある。というか冬も無くてはいけないだろう。
わたしは物事の「標準」というのは「熱いとき」を基準にするべきではない
と思っている。いつまでも「一番良かったとき」をベースに考えては身体も
こころも持つ訳が無い。
良かった時には良くなる「自分以外の要因」がありそれが必ずしも「実力」
では無い事がある。地域的要因・政治的要因・「巡り合わせ」そういう自分
ではどうしようもないけれど「そうなってしまった」事をすべて自分だけに
ある事ではない客観性が必要だろう。
良い事もそうでない事も「誰にでもある」。
わたしは「晴れ男」だと思っているが、先日も出張先で雨にあったし、もの
すごい大雨にも会っている。さらにいえば「雨男」の人の方が強運(?)と
いう意味では上だろう。晴れよりも雨の方が日数が少ないのだから。
わたしは「どうでもいいこと」は「良い方に流れる」と思い。「難しい事」
に対しては「どちらに行くか判らない」と思っている。そこには運ではなく
「これまでなにをしたか」という裏付けが必要だと思っている。
しかし「勉強机」の外側には「なんだか上手くいきそうな外壁」で包まれて
いると感じるのは結構大事な思い込みだと思っている。
10:09 AM
February 18, 2012
認知
デザインを考えているとなぜだか「言葉」の問題にたどり着く。
わたしが文系なのか理系なのかよく判らないけれど職業柄で判断すると
理系になるのかと思うのですが、どうにも言葉の大事さに思いが至る。
「名前の無いものは存在しない」らしいです。ここでいう「名前が無い
ものが無い」というのはすべての事やモノにに名前がついているという
事ではなくて「名前がついていないモノや事は無い事にされてしまう」
という意味です。
つまり特定の「名札」があってはじめて人はその認識をするわけで、自
分が見たという事実であっても「説明のしようがない」場合にはそれが
無かった事になってしまう。みんなが了解したというコンセンサス(総
意)が無いといけないわけです。逆に言えば名札は便利です。
勘のいい人はわかったと思いますが、その「説明のしようのない事」は
そのまま「デザインすること・したもの」と同意です。
いきおいどう伝えるのかを常に考える事になる。「言葉が気になる」と
いう気持ちになるのかはそういうところから来ている訳です。
じゃあどうやって初見のものをどうやって「理解」してもらうかといえ
ば「既に知られているものを手がかりにする」わけです。
人の心理には『人ははじめて会った人を、だれかすでに知っている人物
に「似ている」事にして相手を理解をしようとする』そうです。
わたしも思い当たります。
自分は世の中に一人しか存在しないし「類型」も無いように思い(こみ)
たいのですが、その一方他人に対しては類型で判断了理解しようとする
わけでこの見る事とと見られる事のギャップというか「反対するこころ
の持ちよう」は非常に重要な事だと思います。
例をあげると「デザイン家電」という呼称にもそういう「ギャップ」が
ありました。
デザイナーは個々に「個性的」なものを世に送り出したのに世の中は新
しいモノを「デザイン何々」という「耳慣れた名称の類型」でそれらの
ものを大づかみに判断了解しようとしたわけです。
デザイナー自身が「発明」する名称はもっと難解で高尚なものを好みま
す。海外で生まれた哲学やあたらしい概念の名前を冠する事を選びます。
そのむかし「セマンティック(semantic)」という名称のデザインの流れ
がありました。「意味の」「意味論の」という意味ですが、まったくな
んの事かわかりません。
わたしの理解としては「その機械がする動作や機能のしめす行為をカタ
チに変換するデザイン」という風に解釈していました。
この「理解しがたい部分」こそが汎用性のもとになるわけですが、到底
世間に一般化するとは思いがたい。
「擬態デザイン」「引用デザイン」そういう「すでに知っていてしかも
元の言葉の意味がお洒落でない」言葉では相互に納得はしないでしょう。
ここにもポイントがあります。
それを説明する人広げる人がデザイナーでなく他の世界で認知が高い人
であると「わからないけれどわからなくてはいけないような気にさせる」
存在があればいいわけです。
知り過ぎられていない事が新しさの証左です。
ちなみに「機能を減らすには哲学がいる」という言葉が「機能を減らす
には勇気がいる」としていたら多分そう広がらなかったとわたし自身思
っています。
「勇気」と「哲学」では「わからなさ」と言葉の「高尚さ」が多分に違
っているからです。
「カタチがシンプルな人ほど言葉が難解になる」まことに不思議ですが、
そういう「傾向」があります。
ルイスカーン、ポールランド、ディックブルーナ、エンゾマリ、ブルーノ
ムナーリ等々枚挙にいとまがありません。
彼らの造形はシンプルきわまりないのですが、その言葉は相当に「哲学」
です。アメリカのグラフィックデザイナーの巨匠ポール・ランドの言葉は
「英語の語彙では表現し得ない領域」を探していると思いました。
単純な単語がその前後の脈絡によって「難解」に変貌していきます。
先に書いたように「新しい造形」を生み出す仕事がデザイナーであり新し
さというのは「世に無かった」わけではなくその組み合わせによって誕生
することが少なくありません。というか殆どの場合はそうです。
しかし「どこから持ってくるか(引用するか)」「どう組み合わせるか」
によって全体として新しいモノになることを考えると「言葉」もまた言葉
単体の「難しさ」ではなくてその使い方によって変貌する事に思い至る事
も自然な流れかもしれません。
さらにいえば「すぐには理解しにくい」というのはある意味デザイナーが
自分の心情に「正直」だとも言えます。
新しい事のほとんどは「新しい組み立て」です。
「部品(パーツ)」が新しい事もありますが、それは「新しい事」の自己
表現にほかなりませんが、すべての部品が新しい事が必ずしも「新しさ」
に繋がるとは限らない事も熟知している人が「新しさ」をなすのではない
のでしょうか。
8:49 PM
February 17, 2012
考え

考えというのは忙しい中でふっと生まれた隙間のような時間に深まる。
11:22 AM
February 10, 2012
自己客観
プライドという言葉は本来は「偉ぶる訳でも尊大でもなくかといって自己
を嫌悪する訳でも投げやりになることでもない」と思っています。
つまり比重1.0というか可もなく不可もないところの状態を「プライド」と
言うのだと思うのです。
ゆえに「社会的に偉いかどうか」と「プライド」は無関係に存在するわけ
です。
どうもそれが「プライドが高い」とか「気位が高い」事をそのまま「プラ
イド」と表現されてしまっているように感じています。
わたしはプライドとは「自己客観性」の事ではないかと思っています。
「覚悟」という言葉もけっこう近いところにいる言葉です。ふつうは覚悟
というと相当なそれこそかくごを意味しますが、よく字を見れば「悟りを
覚える」と書くので、「自分を知って行動する事」というニュアンスの方
が「本来的」だと思い、すなわちそれは「自己客観性」だというのがわた
しの「説」です。
プライド=自尊心=覚悟=自己客観性
わたしはこの10年の活動を「名前を世に知らしめる為」という風に表面上
(?)定義してきましたが、本当のテーマは「自分に対する客観性を得る
為の行為」だったのではないかと思うのです。
「捨てるという行為は捨て過ぎてしまって後悔しないと捨てる事の加減は
認識出来ない」と言っていますが、自己の客観性を知る為には、同様に相
当な代償を伴うものだと実感しております。
「自発的」に展示会を開く講演会を開くことは、「恥ずかしい思い」とい
うリスクがともないます。
もちろんリスクを低減する方法はいくらでもあります。
保護膜のような存在をつくっていろんな恥ずかしい思いをグループ力で押
し返してしまえば「恥ずかしい」という皮膚感覚からは遠のけられます。
しかし軽くなるかどうかは別にそういう事柄が「存在」した事実は消える
訳ではありません。
いつも「むき出し」で世間を肌で感じる事ができるように心がけています
が、『そんなコトしなくてもやっていけるのに』と思う自分もいつもいま
す。でもそんなにおおきい痛みにならない今のうちに「痛い事」を経験し
ておいた方が良いと言う50歳の自分がいていろいろ試みをしました。
話は変わりますが、わたしは去年の暮れから今年のはじめにかけて仕事と
は別に10人ぐらいの友人とお茶をしたり食事をしたりしました。おおむね
わたしと相手の二人です。
「誰かと一緒に街を歩くとは必要だ」
そう思っています。自分が目にした事、目にした事をすぐその場で確認し
「補正」することは必要で効率的な自己客観性を作る行為だと思っていま
す。
多過ぎてもいけない。「わたしの話を聞かせる」わけではありません。
感じた事に対して感じた事を仔細に聞ける状態でなくてはいけないのです。
街でお店を見ながら「値段当て」をしたりします。見た感じ触った感触と
ブランドなど様々な条件の中で「適正」と思われる値段を推測します。
それよりも安ければ「お買い得」であり、高ければ「売れない可能性」を
感じ、自分の中にストックし「値段に対する客観性」を磨くのです。
わたしはそういうトレーニング(?)を重ねた結果かもしれませんが、
「良いのに売れない」という話をした事がありません。買う人にその良さ
が伝わるように努める事が先だろうと思います。「良いもの」の場合は作
りが丁寧で単純に見ただけではその「長持ちして壊れにくくていつまでも
美しい」という良さがあります。そして見た感じよりも「高い」事が多い。
その良さをちゃんと伝える責任がデザイナーだけではなく、その製品作り
に関わった人達で伝える工夫をすべきだと思っています。
だんだん話が広がっていきましたが、すべてが「自己客観性」というフラ
ットな自分でなければ相手に伝わらない事だと思っていますし「説得力」
というのは、「話が上手い」事でも「作り事」でもなく「人と人の信頼性」
の有無によって生まれるものだと思います。
自分もよく判っていないのに人の事を色々言えません。まあ判りだすと人
の事は色々言わなく(言えなく)なりますが。
7:59 PM
February 9, 2012
見えない工夫
今日松屋銀座の日本デザインコミッティーの会場で開かれている「森正洋
・デザインのことば」展に行ってきました。
そこにはA4サイズぐらいのパネルに二行ぐらいの森さんの生前の言葉が載
っています。
「デザインの基本は学校でさっさと済ませて現場でいろんな人に鍛えられ
て勉強をしてこい!」そう言われているように思いました。
デザインは現場で出来ている。
そういう話は多くの経験豊かなデザイナーから聞く事ができます。
しかし森さんの強みは「実証」しているところにあります。まのあたりに
その気持ちと気迫のこもった製品が今でも多く販売され続けている。
「生きる教科書」のようなものです。
実は80mmが誕生した背景には森さんの存在といつも使っていた森さんの
湯のみの存在があります。
森正洋のデザインを越えたい。そういう気持ちであの湯のみをデザインし
ました。
セラミックジャパンで打ち合わせをした時に使っていたその湯のみを持参
したことがあります。
80mmの全体色を決定する「柚薬(ゆやく)」のサンプルとして持ってい
たのですが、そこで驚くべき発見というか認識をしました。
森さんの湯のみはぱっとみ「一色」に見えて口周りだけ茶色の柚薬がかけ
られているのですが、実は内側と外側で「柚薬の色」が違ったのです。
その2色のつぎめ(境目)を隠す為に茶色の縁取りがしてあることを大橋
社長に教わりました。
とんでもない事をさりげなくしている事に驚きました。
たぶん森さんの仕事全てにそういう「見えない工夫」がなされているんだ
と思います。そしてそれらはこれまでに生み出されたあまたの陶磁器に対
する学びと現場の経験が元になっていると確信します。
6:04 PM
February 8, 2012
TAKEDA DESIGN PROJECTリニューアル
TAKEDA DESIGN PROJECTのホームページがリニューアルしました。
TAKEDA DESIGN PROJECTを愛情をこめて日本語訳(?)すると「時代
の空気の読めない大馬鹿野郎のはじめた製品作り」という事になります。
ほんとにこんな時節に大胆そのものです。
「新製品」は、すでに1年半も前に完成していました。わたしの個展にも
並べましたし、「LOTUS」は何度となく紹介していますが、その時にすべ
て出来ておりました。
なぜこんなに「ゆったり」しているかといえば、タケダの本業である金属
加工の仕事が忙しかったからであり、なんとこの時期にあって昨年新工場
が建設されました。それゆえにPrimarioが遅れた訳です。
今回「廉価版」たるPrimario Vestigeシリーズが加わりましたが、廉価版に
して一個5000円(税別)です。
あくまでも手を抜く事無く、すばらしい素材と加工と仕上がりにこだわっ
ています。そのうち時代がやってくる。ステイ・フーリッシュ。
3:02 PM
February 8, 2012
機能
「機能を増やすには技術がいるが、機能を減らすには哲学がいる」
いつから機能が設計者の「プレッシャー」になり重荷になったのだろうか?
ちなみにわたしが「機能を・・・」と打ち合わせの場で企画や設計の人達に言
ったのは1986年の事です。最近の製品を対象に言った訳ではありません。
先の言葉を今のアップルと日本の製品の「考え方」の比較で語られる事も多い
様ですがそれは「その後」の事です。
つい最近ある経済誌に「国内生産数の推移」のリストが掲載されていましたが
それを見ると「白物家電」を中心に生活家電の多くが1985年が国内生産のピー
クだった事を知りました。
まさに「ピーク」の時に「機能を減らす事」を考えていた事になります。
しかしそれも「その後」からみて的を得ていただけの話です。
「機能を減らす」というのは、1986年時点でのわたしの言葉の意味は「高級な
ものほど不器用でいいだろう」という事を示していました。
つきつめたものは「万能」ではない。長持ちするものは「万能」ではない。
多芸より一芸と先日講演会で話した内容と25年の年を経て符合が一致したので
す。
逆に言えば今から25年前すでに世の中は「電化製品機能過多の時代」であった
という事です。
最近の状況を見て「製品哲学が不足している」と指摘することは簡単です。
なぜ「機能の付加」に走るのかを考えなくてはいけません。
例えばケーキを作ったとしてワンホールで買う人はそうはない(買えない)と
します。そうだとすれば小分けにしますよね。12等分してそれらにデコレーシ
ョンをして1/12の「さびしさ」をそのデコレーションで間を持たせる。
さらにいえば13等分にした方がそう見かけをかえずに一個多く売れるなあと考
えその難しい13等分を上手く出来る「ガイド」なりカッターを考えるつく人が
現れてもおかしくはないわけです。
まあケーキ作りと「多機能」が直接結びつくかはわかりませんが「工夫の国」
であることには違いはありません。
ふんだんに資源があるわけでもないこの国が急速に発展した背景にはそういう
「無いところをどうにかする」という気持ちがベースにあるのです。
どうもわたしは「結果論」というか今の「セグメント(時点)」でものごとの
良し悪しを断定して話される事が多い事が気になりますし、今の時点でよろし
くないことを「これまですべて」におっかぶせるのは違うと思います。
そうしなければ上手くいかなかった。そうしたからここまでこれた。しかし
根本的に「そうしたこと」に限界とピークがあるのは体力の無さを技術の研鑽
と向上で「うまくカバー」して頑張ってきた事をねぎらっても良いんじゃない
かと思うのです。
9:05 AM
February 7, 2012
インフォメーション
「やっていない仕事はやれないと思われていないか」「書いていない事は書け
ないと思われていないか」そういう妙なプレッシャーがある。
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先日ホームページを変更してくれたお礼をいうべく有馬君に電話をした。
『アキタさん最近忙しそうですね。』と彼。『えっ全然今の仕事や出張につい
て書いてないのに。』とわたし。『アキタさんはなにも書かない時ほど「あや
しい」んです。』と彼。ほんとに人の機微が判っている良く出来た青年です。
わたしは仕事について書くべきではないと思っている。出来たものについては
書くとしてもその仕事を遂行するための打ち合わせや出張についてはさらに書
くべきではないと思っている。
わたしの情報はある意味相手には「雑音」でしか無い事がある。もちろんその
逆もあるわけで、出来た製品を見せれば『なんだ』とも思われて済むが、
『すごいらしい』とか『だれかれが高い評価をしていた』などという風の噂は
さらに困る。
自分が感じた「困った」事は、自分からは発信しない。
そういった意味ではブログという手段もつまるところ「宣伝拡散」だと思って
いるので「ほんとうは」あまり書きたくはない。
その折衷案で思いついたのが「information」というはじめから「広報」を前面
に打ち出した(?)名前だった。
さりとて活動のほとんどを書かないと決めていながら、さらに雑誌やメディア
でデザインに関する記載が年々減る中で「こんどこんな雑誌に載ってます」と
いうinformationもそう書けないわけで、つまるところ「デザインの教科書」と
いった毎日かけそうな「特集」を組まざるを得なくなる。
「やっていない仕事はやれないと思われていないか」とともに「仕事について
書いてないと仕事をしていないように思われないか」というまことにリアルな
プレッシャーもかかってくる。そういう意味ではまったく「大人」にはなれて
いない。
なぜそう思うかと言えば「すでに色々仕事をしている人には頼みやすい」とい
うこれまた誠に「人の心理」を思うからに他ならない。
仕事にふれないのは、同業者に不快を与えたくないわけだが、同業者が仕事を
わたしに振る訳ではない(そういう事もあるのですが)、仕事を頼みたいと思
う人は「仕事をしている鼓動」を知りたい訳で、つまり気遣いする相手とビジ
ネスする相手はその感情が「正反対」なのである。
もちろん理想は少なくなったメディアで取り上げてもらう事であり、その次に
はだれかが代わりに「広報をしてくれる事」になるだろう。スタッフにブログ
を書いてもらうという方法はまさに「そうなるだろう」という道筋にある。
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有馬君の慧眼はまさに正しくこの半年ぐらい出張とちょっとした外出しかしな
いぐらいに今目の前にある課題に取り組んでいて、少し進んではまたやり直し
という効率という事からは一見反対の状態にある。
まだ先だがこれらのものが世に出る時に今日の「もやもや日記」の意味が分か
ってもらえるかと思う次第。
4:45 PM
February 7, 2012
影響
「感動するとは次の日から行動が変わる事である」
「安心感にまさるすぐれた環境はない」
今日、南政宏さんのホームページを見て驚いた。
明日からはじまる滋賀県立大学の卒業制作展に出品される学生さん達の仕事が
「プレオープン」的に紹介されていました。
すばらしいの一言。それぞれの学生が各自の個性とデザインをうまく結びつけ
融合させていて、見ているこちらにその「取りこぼし無く作品に注入したエネ
ルギー」が伝わってきます。こんなに完成度と感性度の高い卒業制作はそう見
る事ができません。
それはなにも講義で伺っているという「ひいき目」を遥かに越えています。
写真は南さんの弟さんでもある南和宏さんのLED照明器具ですが、この作品が
ベストという理由で掲載したのではありません。みんなすばらしい。
じゃあなぜこの写真を掲載したかといえば、まさにわたしの「影響」が典型的
に具象化されている作品だと思ったからです。
先日滋賀県立大学に伺った時に南さんから『卒業制作でシリンダー形状(円筒
)をテーマに取り上げました。』と聞いてわたしは『それはいいなあ。』と答
えました。
数日前の大阪市立デザイン教育研究所での講演でも『わたしはシリンダーのカ
タチばかりをデザインしています。』とお話ししましたが、円筒はわたしの「
もの」ではありません。
何千年も昔から柱や器で用いられてきた形状であり「基本の基本」です。
わたしがシリンダーをいろいろなモノで用いるのは飽きる事の無い合理的で可
能性が無限にある「ひとつのカタチ」だからです。
それは直方体でも多面体でもかまわないのでが、わけても円筒は「合理的」だ
と思っているからです。
いわば製品デザインを通してわたしはカタチの「研究」をしているのです。
80mmと76mmでは「ゆのみ」としての働きと働きかけが異なる事も学びまし
た。
直径と高さのバランスで微妙に変化します。四角や多面体でないのは「要素」
がこのふたつに絞り込まれているので研究として合理的なのです。
わたしはこの頃「不器用のすすめ」をしています。いろんな事が出来ると示す
よりも「これしか出来ない」の完成度を高める事の方が結局は学べる事が多い
のです。
それらを総合してわたしは南さんがシリンダーを取り上げるのはきわめて合
理的で収斂しやすいテーマであると思ったのです。あくまでわたしのカタチは
「きっかけ」であって、わたしのカタチ以上に思想の部分で影響を受けてくれ
ていることに作品をみて感じたのです。
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今回ブログを通して卒展のポスター作りのプロセスも知りましたし、近江鉄道
に協力してもらって電車にすてきなPOPを施した事も知りました。作品作りに
地元滋賀県にある様々な工場を活用された事も知りました。
「卒業制作」という枠をはるかに飛び越えた地元とのコラボレーションは素晴
らしい事だと思います。
それらはすべて南政宏さんが「活動を見守り保証をしている」という安心感を
学生さん達が感じているからこそ出来た事だと思います。
「プロダクトデザインはもっとも遅咲きの仕事である」
わたしはそう思っています。プロダクトデザインを専攻する人はどこの学校に
あってもグラフィックデザインに比して「少数派」です。
それには理由がちゃんとあります。適性が本人もまわりも判りにくいからです。
小さい時からマンガを模写したりかわいいイラストを描いたりする人は沢山い
ます。
自動車のデザインはプロダクトデザインでも「別もの」です。なぜなら小さい
時から街で見かけたり雑誌で見る事の機会の多い自動車は格好の「描く対象」
であり夢の対象足り得るからです。
絵が得意なこどもが冷蔵庫や洗濯機やアイロンを描くとは思えません。
石膏デッサンを幾ら描いてもその技術がそのまま冷蔵庫が上手く描けるとは、
限りません。立体構成や色彩構成が得意でも「限定されたかたち」であるプロ
ダクトデザインにそのまま繋がるとも思えません。
つまり学問や勉強がそのまま活かされるとは限らない荒海に航海に乗り出す覚
悟をしなければなりません。まだ航海術を体得していないのにさしあたって「
海に出る」ようなものです。
さらにいえば「海図」もそう多くは市販されていません。わたしはそう書いて
みてはじめて大学を出てからや会社につとめてからプロダクトデザインを目指
し直す人が少なくない理由がわかった気がします。
「やってみなければわからない」
入試の為のトレーニングと実際のプロダクトデザインの「差異」に早く気がつ
いてリセットした人が伸びるのです。
南さんはその迷いの時期に成すべき事を的確に「海図」として示しているので
はないか。そう卒製の作品群を見させていただいて感じたのです。
11:01 AM
February 6, 2012
プロダクトデザインのカタチ

「困難はすぐれたデザインが生まれる肥沃な土壌である」
土曜日に「大阪デザイン教育研究所」で講演をしました。
会場一杯につめかけてくださった来場者のみなさんの気迫に圧倒されまし
たがテーマである「デザインの初心」に沿ってプロダクトデザインによっ
て自分が考え実践している事にについて少しはお話しする事ができたと思
っています。
「忘れ物をふせぐ工夫」「足をぶつけても痛くない形状」「嫉妬を生まな
いかたち」「使わない時にも邪魔にならない気配り」。等々
わたしにとっては何十回と口にし文章にしていますが、それらはわたしの
デザインを観た時に直感するだろう感想とはたぶんつながってはこないと
思います。
しかしながらそれらの意図がまったく矛盾無くカタチとつながっていく事
にびっくりされただろうとも思います。
プロダクトデザインの本質は思いやりの工夫であり「成すべき事」だと感
じているからこそ「飽きる事無く」何度でもお話ししているのです。
そういうカタチに至るのを「めぐまれた仕事」だからだと思う人も多くい
るだろうと思います。
もちろん先方からの依頼もありますが、お見せした仕事の多くはわたしか
らお願いして始まった事なのです。けっして楽な場面からはじまってはい
ません。
デザイナーではなく人として知ってもらうためのコミュニケーションをす
るところから地道に作り上げできた仕事なのです。
スタイリッシュなカタチが必ずしも「スタイリッシュな仕事の仕方」から
生まれる訳ではありません。そういう「理想」は社会にでればすぐに溶け
てしまいます。
「忘れ物をふせぐ工夫」「足をぶつけても痛くない形状」「嫉妬を生まな
いかたち」「使わない時にも邪魔にならない気配り」はすべてデザインと
いう言葉を必要としません。人と人、人とモノの間で生まれる自然な対話
から生まれる事です。
どこまで「デザイン」という言葉を使わないでデザインを出来るか、デザ
イナーという言葉にしばれらないでデザインを出来るかが自身に課したテ
ーマなのです。
10:24 AM
February 3, 2012
ブックマーク
2005年頃ある「ピーク」が自分とまわりにありました。
そのピークとは「コミュニケーション」だったと思います。
ネットにブログというものが広がってそこで自分の考えと近い共感
をしてくれもしわたしも共感を覚える人達が5人10人と集まった時
期でした。人数では推し量れない充実感がありました。
勉強会や講演に参加してくれて、その日か数日後にはその感想が言
葉となってブログに掲載され相互に確認できる、そんなすてきな
コミュニケーションがありました。
残念な事にしだいにみんなの更新の頻度が下がり、それとともに自
分のブックマークからも消えていきました。
学生だから書けた事。独身だから書けた事。子供がいないから書け
た事。そういう仕事だから書けた事。
それらが3年5年と経つうちに変化が起こり、書けなくなる。
この頃第二の変化がみんなに起きているように感じています。
書けなくなった人達がまた書き始めた。
わたしは10年前からそう変化はしていません。ずっと同じような気
ちと環境の中にいます。そういう意味では書く事もぶれていません。
たぶんみんなが帰ってきた時に、『やっぱりそこにあかりが灯ってい
た』そう思ってもらうためでもあります。
4:08 PM
February 1, 2012
デザインの教科書
8:29 PM
February 1, 2012
コクヨのココロ
コクヨS&Tの運用するショッピングサイト「SHOW CASE」にtrystrams製品が
登場した。
「このサイトについて」にこんな一文が掲載されている。
『コクヨだけでも約1万種類の製品があるんです。だから、カタログも電話帳ぐ
らいの厚さになっています。日本の文具業界団体のリストに登録されている商品
だけでも25万種類以上あるので、中略 ものすごい数になることだけは確かで
す。』
『ながーく売れているのに知られていない製品』『特定の人しか知らない製品』
『もっともっと、いろんな人がいろんな製品に出会ってほしい。』と。
とても共感する話だ。わたしもいろんな人がすばらしい製品に巡り会って欲しい。
かつてこのブログで「ロングテール」という話を書いた。
ネットの登場によって店舗でのように「見えるところに大量に展示した製品だけ
が圧倒的に売れる」という従来の売れ方ではなくて、目立たない製品や埋もれた
製品がネットの画面と「検索」によって買う人が「フラット」に買う商品を選ぶ
ようになって恐竜の尻尾に似ているところから命名された「長い尻尾(ロングテ
ール)」の尻尾の部分がどんどん太く長くなっている。
フラットにフェアーにより多くのものが選ばれる環境がネットによって広がった。
それは製品だけの事ではない。デザイナーそのものにも当てはまる。
いろんな人のいろんなデザインや活動を多くの人に知って欲しい。それこそが
文化の広がりであり深さの根源だ。「バリエーション」は製品だけの話ではない。
12:00 PM



